元旦礼拝

聖徒の幸い

みことば 詩篇16:1-11
 主にあって新年のお祝いを申し上げます。新しい年が祝福の年であり、皆さんが主にある幸いを実感される年となるように、一年を通じて祈らせていただきたいと願っています。
 今日読んでいただいた箇所には、主への挨拶の言葉があり、また兄弟姉妹への挨拶が記されています。新年にあたり、このように告白することは、どんな挨拶よりも重要なことです。このように告白する者は信仰者の幸いを知ることができるでしょう。ダビデの幸いとは、

① 主を嗣業とする幸い。「わたしの分」とは、先祖から譲り受けた地所です。カナンの地は、イスラエルにとって神から与えられた永久の所有であり、売り渡すことはできませんでした。しかし、ダビデは、「神こそが永遠の嗣業である。」と言っています。わたしたちは何がなくても、何ものにもまさる方を財産として持っており、その方の中に、わたしたちの必要の一切があります。わたしたちはこの永遠の財産を、この世の楽しみや栄誉と取り替えるようなことをしてはなりません。「主はわたしに与えられた分・・・」という告白をもって、信仰生活に励みたいと願います。

② 主と共にある幸い。「右にいまし」とは力をもって、権威をもって、傍らにおられるという意味です。ガリラヤ湖突風のために、弟子たちが漕ぎ悩んでいる時、主は「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われました。わたしたちは主と共にある民として選ばれ、救われて神の子とされました。主は落胆しやすい「わたしたちの思いを励まし、」迷いやすい者を「夜ごと諭してくださる」のです。ダビデは「わたしは絶えず主に相対しています。」と言っています。「臨在の前にあります」という意味です。漠然と「主は右にいまし」といっているわけではなく、絶えず主の前に出ることを告白しています。わたしたちが絶えず主の前に出るならば、主はわたしたちを励まし、諭してくださいます。そのような新年でありたいものです。

③ 主の命に与る幸い。わたしたちは復活された主に「命の道」を見ることができるのであり、「御顔を仰いで満ち足りる」希望があるのです。わたしたちは「洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。」わたしたちの全生涯は復活の主の内にあり、復活の命に生かされているのです。ダビデは、「主に申します。『あなたはわたしの主。あなたのほかにわたしの幸いはありません。』」と告白しているように、わたしたちもこの告白をもって新しい年を始めようではありませんか。

(説教者 : 北尾 欣三 師)