主への認識と確信(第2礼拝)

みことば ヨハネによる福音書1:35-51
 ヨハネはイエスが初めて弟子を選んだ出来事を記しています。その記録は他の福音書の記載方法とは少し違っています。主な違いは、イエス様と聖書の中の人物の相互関係、またイエス様と最初に選んだ弟子たちとの対話、および弟子たちの特殊な名前の記録です。

① アンデレとシモンの出会い
 バプテスマのヨハネがきっかけとなり、アンデレがイエス様を知る最初の弟子となりました。そしてその後兄弟のシモンを会わせました。イエス様はシモンに新しい名前を与えました(ペテロ―神の恵みを受けて救いを得、使命をいただくことを意味するもの)。新しい名前は新しい認識と身分をあらわしています。バプテスマのヨハネはキリストでも光でも命でもありません。ヨハネは光と命の証人でした。ヨハネは自分から巣立った弟子たちをイエス様に差し上げました。アンデレは謙遜、忠実で忍耐のある人でした。栄光を人にゆずる人で、シモンを主イエスに会わせ、主イエスこそキリストであることを認識させました。

② ピリポの招命
 イエス様はガラリヤに行く途中にピリポに出会って、「わたしに従ってきなさい」と言われ、彼を弟子とされました。ピリポの心はへりくだっていたので主イエスさまからの招命に純心に従うことができました。ここにはキリスト者にとって難しい従順という課題があります。ピリポはアンデレ、シモンと同じベツサイダで生まれ育った人で古くからの友人でしょう。ピリポとアンデレはその後主のために仕える力強い仲間となりました。彼らは心を一つにしてキリストに従っていたので、キリストの命がある弟子たちでした。

③ エスとカナンのナタナエルとの対話
 その後ピリポは旧友のナタナエルを探し、彼に主イエスを知らせました。同時に主イエス旧約聖書においてモーセが語り、宣告したメシヤであり預言者が予言したメシヤであることを説明しました(創世記49:10、申命記18:15)。また、自分が主イエスに直接会って共に行動したことを話しました。ナタナエルは心に思ったことをありのまま語りました。「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と。旧約聖書ユダヤ人のいろんな文書にはナザレについて何も書いてありませんでした。ナタナエルがそう思うのは当然でした。主イエスは彼に対して特別な高い評価をしていました。後にナタナエルは信仰告白をしています。

④ あなたとイエスとの対話
 主イエスへの認識と確信がはっきりしなければならないのです(ローマ10:9-10)。
 ヨハネ1章の中にイエス・キリストに対して5つの確かな認識と証があります。
(1) ヨハネの認識はイエス・キリストは創造者であり、光であり、命である(1:29、36)
(2) イエス・キリストは世の人々の罪を取り除く神の子羊である。
(3) アンデレの認識はイエス・キリストはメシヤである。
(4) ピリポの認識は、私たちはすでに旧約聖書に記した預言者の預言したお方を見た。またヨセフの息子、ナザレのイエスこそ、そのメシヤである(1:45)。
(5) ナタナエルの認識(1:49) イスラエルの王という部分はすべての国をあてはめることができます。イエス・キリストは世界の王です。
ヨハネによる福音書における2つの大切なメッセージのうち1つは、私たちが信じて、伝えて、証している主イエスが福音の主人公であるということ。2つ目は弟子たちがした行為はイエス・キリストを正しく認識して、さらに確信し、そして家族や人々に紹介したということです。
福音を伝えることは教会が必ずすべき任務です。存在の目的がそこにあります。宣教なき教会は力とヴィジョンを失った教会です。教会の宣教の中心はキリストです。教会がキリストの福音を伝えないならばその存在意義を失います。わたしたちは主イエス・キリストと命の関係を告白し、聖書を読み祈ることによって、教会と社会に奉仕します。イエスが主であることを徹底的に認識しなければなりません。


(説教者 : シン ・ オラム 師)

主に連なって(第1礼拝)

みことば ヨハネによる福音書15:1-12
 主は、私たちとの関係について「わたしはまことのぶどうの木、あなたがたはその枝である」と言われた。主が、わたしたちに不可欠であるように、主にとっても、わたしたちは不可欠である。わたしたちは
① 主の命に連なっている。
 ぶどうの幹から樹液が枝の内に常に注がれている。無駄なことに命を浪費したり、罪によって遮断しないようにすべきである。

② 主の言葉に連なっている。
 わたしたちは主の言葉によって、主に連なっている。「わたしの言葉」とは十字架の言葉であり、福音の内にとどまっているならば、その命によって、主に似るものとなるであろう。

③ 主の愛に連なっている。
 わたしたちは十字架で現された愛、赦しの恵みに生き、それを証ししなければならない。交わりを通して主の喜びに与る。


(説教者 : 北尾 欣三 師)