秋の福音の集い

新しい人生の始まり

みことば ヨハネによる福音書3:1-21
 イエス・キリストを信じると神の国をみることができる。神の国とは天国のことである。しかし、神の国をみるとは死ぬことと同義ではない。イエス・キリストを信じた時からこの地上で天国での生活が始まる。


① 聖書の言う国とは場所ではなく支配権をさす。神の支配に入るとは今生きているこの場所が神の支配する世界として意識されるということ。コヘレトの言葉の1章にはこの世界は同じことの繰り返しでありすべてはむなしいと書いてあり、3章にはこの世界は神の御手のなかですべてのことがその時にふさわしく起こると書いてある。これはどちらも真実であり、神の支配、御手の中にあるとこの世界をみる視点が変わるということである。この世界が偶然の連鎖の中にあるなら私たちに生きている意味はない。神の国をみるとは私の人生を、唯一の神が作られた世界の中で意味あるものとしてみるということ。この世界で起こっているすべてのことに意味があると確信をもって生きることができるようになる。


神の国をみるためには新たに生まれなければならない。新しく生まれるとは水と霊によって神の支配に入るということ。水は洗礼を意味し、洗礼を受けて人々の前に神を信じることを表明することが必要である。洗礼は単なる儀式ではなく、人は社会的な存在であり心で信じているだけでなく人の前にそれを明らかにしなければならない。霊によって生まれるとは、自分でコントロールできない不思議な神の霊によって心がつくりかえられるということ。信じるものとなるには、自分の決断が必要。鳥が卵から生まれる時に雛が中から殻を破ろうとするのと同時に親鳥が外からも殻を破る。そのように私たちが内側から変えられたいと望む時に神が不思議に働いて私たちの外側も変えてくださる。


出エジプト記で荒野で不平をいうユダヤ人たちが蛇にかまれて苦しんでいた。祈ったモーセに神は青銅の蛇を竿にさして高くあげ、その蛇をみれば救われると答えられた。このときの蛇とは自分たちの罪を象徴しておりそれをみることは自分の罪を認めることであった。また、それを高く上げる様は私たちの罪の代表として十字架にかけられるイエス・キリストを表していた。罪の代表として十字架に架けられたイエス・キリストをみる人は、私が神の前に罰を受けるべき罪びとであることを認めて、罪の救い主としてイエス・キリストを受け入れる人である。このような人だけが神の国に入ることができる。これが福音であり、これを信じるときにこの地上にあって神の国を生きることができる。

(説教者 : 金井 由嗣 師)